はじめに
仏教で抑えておきたい基礎は
中道
四諦八正道
三法印(四法印)
帰依
利他
カルマの法則
四無量心
三毒
六波羅蜜などです。
今記事ではその中でもお釈迦様が初めてした説法(初転法輪)で説かれた中道と四諦八正道について説明します。
ヨガにおいても仏教においても目的は「解脱」ですので、お釈迦様のわかりやすく体系化された教えを知っておいて損はありません。
中道
お釈迦様は快楽主義(左道)でもなく、苦行主義(右道)でもなく中道を説きました。
お釈迦様はこのような例えを使いました。
「琴の弦は強く張りすぎては切れてしまう。
逆にゆるく張りすぎると音が出ない。
良い音を奏でるには強くもなく、ゆるくもなく、程よく張る必要がある。」
瞑想においても力んで緊張しすぎることなく弛緩しすぎることなく、バランスを取って実践しなさいという緊緩中道という教えもあります。
あまりにも苛烈な修行に身を置いてしまうと、心が高ぶってしまい静まることがなく。
また、修行をゆるやかなものにしてしまえば、怠惰の心が湧いてきて修行にならなくなります。
当時のインドでは修行=大苦行の文化がありました。
苦行中に生き絶える事こそ名誉だった時代でお釈迦様は苦行をやめて仲間から「弱虫」と罵られてしまいました。
しかし六道の内、人間界は唯一解脱できる(修行できる)世界とも言われてる中で、修行をしたいのに死んでしまっては元も子もありません。
四諦・八正道よりも先に、この中道の教えを、以下のように説いたといいます。
「比丘たちよ、出家した者はこの2つの極端に近づいてはならない。第1に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。第2に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。
比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃(ねはん)のために役立つものである。」(パーリ語経典相応部から『世界の名著 1』中央公論社 p435-439)
また、ハタヨガにはスシュムナー(中央気道)のどうかという目的があります。
人体には気道(ナディ)という気の通り道があり、7万2千本の道が走っているとされます。その中でも主要な通り道が三本あります。
気道 | 呼び方 | お釈迦様の教え | 3つのグナ | |
1 | 中央気道 | スシュムナー | 中道 | サットヴァ(純質) |
2 | 左気道 | イダ | 快楽主義 | タマス(惰質) |
3 | 右気道 | ピンガラ | 苦行主義 | ラジャス(激質) |
三本の気道はどれかが強ければよいというものではなく、全てバランス良く生じて最終的にスシュムナー(中央気道)を昇って頭頂部まで達すると解脱すると言われています。
つまりお釈迦様の教えはハタヨガ、クンダリニーヨガと同様に右道も左道も大事であり最終的には中道である必要ということです。
なお、中道の教えと呼ばれるものにはいろいろな種類があり、初転法輪で説かれた中道は快楽主義にも苦行主義にも偏らないという意味で「苦楽中道」ともいわれます。
四諦
「四諦」とは、四聖諦とも呼ばれます。4つの聖なる真理という意味がです。
その4つの諦とは以下のとおりであり、まとめて「苦集滅道」と略称されます。
名称 | 説明 | 別称 | |
1 | 苦諦(くたい) | この世は苦であるという真理 | 一切皆苦 |
2 | 集諦(じったい) | 苦の原因に関する真理 | 十二縁起 |
3 | 滅諦(めったい) | 苦の止滅に関する真理 | 涅槃寂静 |
4 | 道諦(どうたい) | 苦の止滅の道に関する真理 | 八正道 |
四諦の要点は以下です。
この世・人生は一切苦である(苦諦)
苦の原因は煩悩であり(集諦)
煩悩を滅すれば、苦は滅することができ(滅諦)
その具体的な道(八正道)があるというものである。
一言でいえば、この世、特に自己に対する執着(自我執着)を捨てることで、苦しみを滅すること(悟ること)ができるということです。
苦諦(一切皆苦)苦しみとは
この世界の一切が苦であるという意味です。
こう聞くと人生には何の希望もないのかと絶望感を抱く人がいますが、「苦」の意味を正しく知る必要があります。
サンスクリット語ではドゥッカ(duhkha)といい、その原義は「不安定な、困難な、望ましくない」といったほどの意味です。
ドゥッカ(duhkha)には、二つの意味があります。
一つ目の意味は、日本語の苦と同じような意味であり、苦と楽のうちの苦のことです。
より正確にいえば、この世界には、苦と、楽と、苦でも楽でもない(不苦不楽)の三つがありますが、その中の苦です。
しかし、苦諦が説く苦とはこの意味でのドゥッカ(duhkha)ではありません。ここを履き違えてしまうと人生には希望がないのかという考えに陥ってしまうかもしれません。
二つ目の意味のドゥッカ(duhkha)とは、楽も不苦不楽も、それにとらわれると、それが変化して壊れるがゆえに苦しみの原因となると考える場合の苦です。この世のものは一切が儚く変化していく(諸行無常)限り苦楽は表裏一体ということになります。
仏教には「三苦」という教えがあります。
今記事が長くなるので別記事を御覧ください。
三苦の中の行苦が重要になります。
あらゆる存在は無常であるので、一切行苦といって、一切の存在は(とらわれれば)苦しみ(の原因となるもの)であると説く。こうして、行苦とは、(とらわれれば、無常であるがゆえに)一切の存在は、苦(の原因となるもの)であるという意味での苦です。
こうして、苦諦が説く「この世は苦である」ないしは「一切は苦である」という教えは一切のものが、今この時点で苦痛であるという意味ではありません。
一切のものが、無常であることなどを背景として、とらわれれば、人にとって苦の原因となるという意味です。
ドゥッカ(duhkha)とは不安定な、望ましくないといった意味があるので、「不安定であるがゆえに、とらわれることは望ましくない(もの)」という意味だと解釈するとよいと思います。
また三苦の他にも「四苦八苦」を併せて知っておくと理解を深めやすいです。
以下の記事を御覧ください。
集諦(十二縁起)苦の原因とは
お釈迦様は「苦の原因は煩悩」と説きました。
集諦のはもともと生起する、集める、結合の意味です。そのため、苦の原因ないし苦を招き集めるものは煩悩であるという意味で、集諦と訳されたと思われます。
煩悩を招き集める順序を記したものが「十二縁起」です。
十二縁起(じゅうにえんぎ)とは、
12の心理作用の名前とはたらきです。これらの心理作用が縁によって煩悩が起こる、縁起で煩悩が発生していきます。
・六処(ろくしょ)
・触(しょく)
・受(じゅ)
・愛(あい)
・取(しゅ)
・有(ゆう)
・生(しょう)
・老死(ろうし)
・無明(むみょう)
・行(ぎょう)
・識(しき)
・名色(みょうしき)
詳しくは別記事にまとめています。
ではそもそも「煩悩」とは何なのかというと。
仏教が説く根本的な煩悩は、三毒といわれ、それは、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)、すなわち貪り・怒り・無智です。
貪り(欲張りすぎ)
怒り(嫌がりすぎ)
無智(間違った見方・今の自分さえよければという怠惰など)
無智から快不快、好き嫌いの区別が生じます。そして、心地よいものを、自分のものとしよう、自分のものとして増やそうという「貪り」、その逆に、不快なものを排除しようとする「怒り」が生じます。
この三つの煩悩が、他の様々な煩悩(下位の煩悩)をもたらし、妬み・慢心・愛着などの様々な煩悩が生じます。
滅諦(涅槃寂静)苦の止滅に対する真理
四諦の第三である「滅諦」は、苦滅諦ともともいいます。苦を滅する教えです。
苦しみの原因は煩悩ですので煩悩を滅する方法でもありますね。
古くから哲学者や様々な人が「幸せとは」を追求し続けています。
スイスの哲学者、カール・ヒルティは『幸福論』にこう言っています。
人間だれ一人として幸福を求めないものはない。
幸福を求めるということ以上に、あらゆる人に共通した考えはない。
ただ、幸福の内容はどんなものか、また、この世で幸福を見出せるかどうかは、考えが一致しない。
どれだけ幸福を求めていても人によっても、時と場合によっても変動する。苦諦でも説明したとおり無常によって人々の想像する幸福像は変化し続けます。
なので変わらない真理としては、そもそもそれは幸福ではないのです。
お釈迦さまはまず、変わらない、本当の幸せとして、煩悩が滅した世界「涅槃(ねはん)」があることを教えられています。
道諦(八正道)苦の滅を実現する修行方法
苦滅道諦ともいいいます。苦を止滅する道に関する真理という意味です。
十二縁起で説明したとおり苦の原因は煩悩です。そして煩悩の中でも根源は無智から始まります。
苦を止滅する道とは、無智を滅して、煩悩を滅して、苦しみを滅する道です。
そしてその道を道諦、「苦滅道聖諦」といわれて、八正道を教えられています。
八正道(はっしょうどう)
正見(しょうけん) | 四諦の理解洞察(知見) |
正思惟(しょうしゆい) | 正しい想い |
正語(しょうご) | 正しい言葉 |
正業(しょうごう) | 正しい行い |
正命(しょうみょう) | 規則正しい生活 |
正精進(しょうしょうじん) | 正しい想いの実践 |
正念(しょうねん) | 観察する瞑想の実践 |
正定(しょうじょう) | 精神統一する瞑想の実践 |
まとめ
4つの真理(四諦)を知り、いざ仏道に入る、修行をしたいと考えた上で重要な要素が3つあります。
帰依
布施(利他)
慚愧
以上の3つがあります。
詳細は長くなるので別記事にまとめます。
・帰依
仏教用語としての帰依は、三宝とされる仏・法・僧に対して信奉することをいいます。
大乗仏教に「縁起の法」があり、縁によって生起するという意味で、この縁とは、原因・条件などを意味。
縁起とは、物事が何かの原因・条件によって生じることを意味します。そして、これを言い換えるならば、縁起とは、物事が、その物自体の力によって、他から独立して生じるのではなく、何かの他者を縁=条件・原因として生じるということを意味する思想です。
何をするにも縁がなければ結果は生じません。
そして解脱、涅槃に入るためには仏縁は必ず必要になります。
その仏縁を深めるために帰依が重要になります。
経営者が大事にするTTP(徹底的にパクる)
学ぶは真似ぶ
すべての創造は模倣から始まる
などの言葉があるように成功した実績のある人を真似る、模倣することから始まります。
解脱、涅槃に入った存在を仏と呼ぶので、涅槃に入るためには仏に帰依し徹底的に模倣することから修行が始まります。
・布施
次の布施ですが、サンスクリット語ではダーナ(dana)で利他という意味です。
何かの願望を成就させるには「功徳」が必要になります。つまり解脱を成就させるための修行にも功徳を消費するということです。
功徳を貯めるには善い行い(善行)をする必要があり、では善い行いとは何かというと「利他」のことです。
利他とは他人に利益を与えること。自分を犠牲にして、他人のために尽くすことです。
布施には大きく分けて「財施」「法施」「無畏施」の三種があります。
利他行を行うには四無量心が重要になります。
※別記事で解説します。
・慚愧
仏法の照らし合わせて自らなした過ちを恥じることです。
自らの行いは本当に正しいのか内観し、間違っていたら恥じて次に活かすことが必要になります。
根本的な煩悩は無智。八正道に照らし合わせると正見がはじめに出てきますが、4つの真理(四諦)あらゆることは苦しみであることを理解できないということを恥じたりすることです。
自らが過ちを犯していることに気が付かない限りは過ちを犯し続けます。
慚愧によって悪業を積まないようにし、余計なところで功徳を消費しない。
因縁果の法則上、悪業は必ず自分に返ってきます。
悪業を精算するのにも功徳を消費します。
仏法に照らし合わせて悪業を恥じ、精進し続けます。
正しく修行を行うには慚愧が必要不可欠になります。
帰依によって仏縁を深め
布施(利他)で功徳を貯め
慚愧によってその功徳を正しく消費
真我の癒し会では中道と四諦を理解してからこの3つの重要な要素を組み込んだ上で八正道を行うことを推奨します。
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